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覚え書きノート(藤原安紀子さんメモ)

 藤原安紀子は「刺激的」な作家である。作品の彼岸から読者の情緒を揺さぶる。その詩篇に愛読者は耽溺する。そのように向こうから射貫いてくる瞬間を、わたしたちはロラン・バルトが自身の美しい写真論で口にした「プンクトゥム」という言葉で知っているかもしれない。大学で写真学科に所属していた藤原のアーティストとしての嗅覚がメディアを超えてもなお、活きているように思う。

 プンクトゥムを解きほぐすと精神分析の領域にまで踏み込まなければならないので読者の理解の妨げにならないようごくごく簡略化した図式で整理すると、プンクトゥム(punctum)とはストゥディウム(studium)と対にされる指摘で、ストゥディウムは知識や解釈でまかなえる、いわば観るものが再構成可能な意味であり文脈/コードである。それに対し、言語化できない魅惑してやまないものとして対置されるのがプンクトゥムである。いまさら、と気怠く感じる向きは下記しばらく飛ばされることをお勧めするが、プンクトゥムとはそのような解釈コードから逸する、体系を揺さぶるシニフィエなきシニフィアン、つまり言い換えれば彼方向こうから無文脈に「突き刺してくる」「コードなきメッセージ」だということだ。その刺激に受け手(鑑賞者)は魅了されるのだ、とそうロラン・バルトは言う。

 アート作品などを語るとき使い勝手のいいこの語は重宝される傾向があるにしても、現代詩というヴァーヴァルアートにおいてその魅力を言いあぐねうまく言語化できない体験、いわばメタレヴェルで即座に言明できない魅力に面して、プンクトゥムに射貫かれていると指摘することは特段突飛なことではないはずだ。

 藤原安紀子が刺激的な作家だと冒頭で書いたのは、コードなきメッセージであるこの「プンクトゥム」を同時代の作家においても抜きん出て効果的に作品に散らせている点にある。コード化不可能な個々に異なる細部を発見させることは計算ではできない。それゆえ先ほど「アーティストとしての嗅覚」という言い回しを使ったが、これは勘、あるいは賭け事に近いアーティストとしての本質であろうと思う。

 しかし、ここでこのような素朴な感想で以って藤原安紀子への言及とする当記事へそんな単純な、と疑義を挟んでしかるべきだ。たしかに「ストゥディウム」と「プンクトゥム」はわけもなく魅了されてしまうものへ言及するときよき補助線となる概念である。ただし、とくに後者「プンクトゥム」においてはラカンの現実界とも関連付けられることからも察せられるように、言語化を阻んでしまうという限界も周知の通りである。。

ジャック・デリダは「ロラン・バルトの複数の死」において以下のように言っている。

プンクトゥムは場外、コードの外にあるという事実が思い起こされる。取替不可能な特異性の場所、唯一無二である指示的なものの場所として、プンクトゥムは発散し、そしてこれが最も驚くべき事実であるのだが、プンクトゥムは換喩にぴたりと一致するのだ。そして、次々と行われる置換作用の中に引き込まれるや否や、プンクトゥムはすべてに、すべての対象と情動に侵入することができる。領域の中のどこにも存在しないこの特異なもの、かくしてそれはすべてをいたるところで動員し、自ら複数化するのである[1]

 プンクトゥムは換喩に一致する。換喩、つまり隣接するものへ転義する力と言い換えられる[2]。蛇足だがバルトはそもそも換喩に意識的であった。それというのも、換喩はロマン・ヤーコブソンの言語理論によって注目を集め[3]、言語記号の連鎖という関係性が重視されていく二〇世紀半ばの潮流のなか、バルトもシニフィアンの戯れ(jeu du signifiant)を具現化する自身のテクスト論を換喩の隣接関係を軸に展開していることからも自明だ。[4]

 ここで徒に思想の潮流を整理する必要はないので、換喩に親しかったバルトの指摘「プンクトゥム」をデリダが「プンクトゥム=換喩」と脱構築をはかったことだけ押さえ、ようやく本来の藤原安紀子の作品に戻ることにしたい。

 ここまで迂回したのは、もちろん藤原の作品に見出すプンクトゥムが換喩に支えられているからではないかという見立てからだ。

 先に書いたようにプンクトゥムの引き立て役でもあるストゥディウムとは文脈でありコードである。これは難解と言われる部類の現代詩全般に言えることだが、それを読者に難解と言わしめてしまう理由は、このストゥディウムが現前とはしていないことにあると言える。ゆえに、その捉えどころのなさに戸惑いを感じる者は、つい難解だと遠ざけてしまう。感得したことはわかれども詩篇に覚える魅惑を的確に言語化することができず性急に良し悪しを(もしくは現代詩につきものとの「むずかしかった」という感想)を口にする者もいるかもしれない。


次回以降では、藤原安紀子の詩がなぜ捉えどころがないと感じてしまうのか、というスケッチを、またコンテンポラリー・アートとしての詩篇を捉える試みの痕跡をシンプルにまとめていきたい。



[1] ジャック・デリダ「ロラン・バルトの複数の死」(1981年)國分功一郎訳、『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』、岩波書店、2006年、130-131頁

[2] 佐藤信夫監修の名著『レトリック事典』(大修館書店、2006年)で佐々木健一のコンパクトなまとめに拠れば、換喩とは「一部の言葉を省略し原票そのものを短縮するための転義的比喩」と端的に言えるものとして、この記事も進める。

[3] ロマン・ヤーコブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」、田村すゞ子訳、『一般言語学』、川本茂雄監修、みすず書房、1973 年、21-44 頁)

[4] 「作品からテクストへ」、『物語の構造分析』、花輪光訳、みすず書房、1979 年、96 頁