政治的、ということ

ハンセン病について冊子を作ったあたりからずっと気になってきたことに、表現は必ず政治性を孕む、ということがありました。
それをさらに狭義の意味の「政治」に絞っても戦前戦中に戻らずしても、このブログで何度か言及している藤井貞和さんの「クソ詩」と、そして軟着陸してしまったようにみえる湾岸戦争詩論争が頭をよぎります。

そんなことをわざわざ書き始めたのは、「WORKS」においてある辺野古土砂投入に抗して制作した「土砂の【濁】はプロシャンブルー、流し」という詩篇を遅筆ながらなんとか急いであげたことにあります。

わたしは大学院博士課程前期は日本近現代文学を専門としていて、とくに小熊秀雄という「ブロレタリア詩人」とラベリングされる詩人を研究していました。
わたしの研究の目論見は小熊秀雄を「プロレタリア詩」から開放し、民衆詩派を引き継ぎながら、先鋭的な施策を行なった詩人として再評価することでした(修論はまったくその目標に届かない、ひどいものでしたが)。

そういう経緯もあって、いゆる表現で現状=政治性にコミットすることに関してはイコールで表現が同定されるものでないと考えており、むしろこのようなきな臭い現状において、花鳥風月ばかりを選び詠って満足することのほうが政治的振る舞いにすら感じられるます。

わたしはこのようなコミットの仕方で制作することに不慣れです。
またそのことをメインテーマとして制作作業のゴールに据えているわけでもありません。

ただアクチュアルに現代詩というもの、表現というものに向かい合っていたいというだけのことです。

花鳥風月へのアプローチもしたい、ただ現在生きているという証も残したい、そういう気持ちです。

オケージョナル・ポエムという謂いでゲーテが示したことは、そのとき生きている、という日付の刻印ではなかったか、そう考えるこのごろです。

徒然でまとまりませんが、どうぞよしなにお願い申し上げます。


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